映画の余白にあふれ出す気迫と胆力
小説や映画には時代の空気を敏感に反映するだけでなく、社会のわだかまりや問いかけに応答し、道を示そうと試みるものがある。先週末封切りの「典座」をそんな一作というと、まるで教育映画みたいに響くだろうか。
田舎の仏寺の跡取りに生まれた隆行と智賢。かつて曹洞宗総本山・永平寺で修行した2人は、いまおのおのの地元で住職をつとめるものの、片や「3・11」で墓地も檀家もすべて流され、片や幼い息子の重度アレルギーに悩む。
世代的には少女漫画「ファンシィダンス」が描いたバブル時代の修行僧たちと同年配のはずだが、変におちゃらけるでもなく、かといって抹香臭いわけでもない。
バブルがはじけ、震災からも月日が流れ、沈み切った世の中で仏法を説くとはどういうことか。一見ドキュメンタリーのようでいながら、ぎこちない会話からどうやら全員素人の出演者にそれぞれセリフを与えた演出だと見当がつく。曹洞宗きっての高僧・青山俊董尼との対話の場面が強靱な軸になったとはいえ、この演出を成功させたのは富田克也監督と映像制作集団・空族が達した力量のなせるところだろう。
日本の仏教がどのようにだめになったのかを鋭く指摘する俊董尼の言葉で思い出したのが、仏教最古の古典「スッタニパータ」を訳した故・中村元の説話集「原始仏典」(ちくま学芸文庫 1300円)。世界的なインド哲学者・仏教学者だった中村さんには何度かお会いしたことがあるが、平易にして柔和でありながらも揺るぎない高徳の知性に頭が下がったものだ。
社会も政治も経済も、過去数十年でいちばん苦しく感じられる現在。幾重にもたえまなく日々を絞め上げるようなこの不快に立ち向かう気迫と胆力が、映画の余白にまであふれ出すようだ。 <生井英考>