「ヒトラーの時代」池内紀著

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 去る8月30日、ドイツ文学者の池内紀さんが亡くなった。78歳だった。池内紀の名前を知ったのは、法政大学出版局から出ていた「カール・クラウス著作集」の第9・10巻「人類最期の日々」の訳者としてだったと思う。奥付を見ると、1940年生まれ、神戸大学講師とある。前記の書が刊行されたのは71年、手がけたのは恐らく20代末。第1次世界大戦を巡る寓意と風刺に満ちた戯曲の大作をそんな少壮の学者が訳したことに驚いたのを覚えている。その後、池内さんは専門外のエッセー(温泉からダイナブラザーズまで!)も数多くものし、エッセイストとしても活躍する。

 本書は池内さんの遺著。この本は刊行後、事実関係の間違いなどを指摘され、ネット上で炎上騒ぎが起こり不幸な船出となってしまった。しかし、細かな揚げ足を取るようなアカデミズム的な偏狭さからもっとも遠かったのが池内さんだ。本書は、ごくふつうに暮らす人々がナチズムという妖怪を生み出し、支えた時代を「負の鏡」として多面的に照らし返したものだ。

 頭にヒトラーのお抱え写真家ホフマンの話を置き、演説家ヒトラーの声、マレーネ・ディートリヒと名取洋之助のナチズムとの関係、ラジオの威力、そして再びヒトラーの写真(顔)の話に戻っていく。いくつもの話の積み重ねから独特の時代相が浮かび上がってくる。

 思えば、クラウスから始まり、ブロート、カネッティ、ジャン・アメリー、グラスと、池内さんが翻訳を手がけた作家の背後にはヒトラーという男がいた。その意味で本書が生前最後の本となったことは意味深い。この地上の騒ぎを、池内さんは「まあ、ご苦労なことですねえ」と、ちょっと困ったような笑顔を浮かべながら天上から眺めているにちがいない。
<狸>

(中央公論新社 860円+税)

【連載】本の森

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