次第に夢幻の気配を強める男の旅
「凱里ブルース」
映画館は夢を見る場所。「緊急事態」の下で痛感したのがそれである。自宅に5K映像の大型モニターがあったとしても、映画館の座席で見上げるスクリーンに勝るものはない。改めてそう感じるのは筆者だけではないだろう。
やっと営業再開となった都内の映画館では多数の作品が今や遅しと出番を待っている。そのひとつが今週末封切りの「凱里ブルース」だ。
ここ20年の中国映画界は新しい才能を生む力が目覚ましい。本作で長編監督デビューしたビー・ガン(畢赣)は、「象は静かに座っている」のフー・ボー(胡波)監督と並ぶ「中国映画第8世代」。
その特徴は明確な様式と、世界の映画や文学に影響されたグローバルな作家性、そして若さ。フー監督は一昨年、「象――」完成後に29歳で自殺してしまったが、ビー監督も4年前の本作が26歳の時の作。しかも、中国映画界で本流の北京電影学院ではなく、テレビ人養成が主な山西伝媒学院卒。南部貴州省出身で少数民族ミャオ族だという。
映画はこの貴州省の凱里に刑期を終えて戻ってきた男の旅を描く。目的は尋ね人だが、次第に旅は夢幻の気配を強める。奥行きが歪んだようなワイドレンズの視覚効果に加え、1カット40分間という長回しによる移動ショットが、主人公と観客を夢の中に連れ込んでしまうのだ。このビジュアルだけでも本作を見る価値があるだろう。
肉眼で見ているはずなのに、いつの間にか現実感が消滅してしまう不気味な経験。ウイリアム・アイリッシュ著「幻の女」(黒原敏行訳 早川書房 980円+税)はこれを謎解きに利用した傑作の誉れ高い古典的ミステリー。
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」という有名な一行から始まる文体の魔術的な魅力。今回の映画にも一脈通じる夢幻の物語だ。 <生井英考>