山本一力 売れない時代の胃袋を満たしたアラ煮の思い出
■銭湯で「絵のおじさん」が仁義指導
夕飯が終わると、家族みんなで浅草・今戸の銭湯に繰り出すのが日課だった。
「銭湯の中の人間模様を見ていると、本寸法の親分がいたりするのよ。背中に彫り物がある。子供たちは親分を『絵のおじさん』って呼んでいた。その親分がなんと時代小説好きでさ。『仁義の切り方ってぇのは、こうやるんだ』ってちゃんと教えてもらった。賭場ではこうだと。(03年に発表した)『草笛の音次郎』で描いた音次郎が育っていく過程の描写は、全部親分から教わったことだね。あのころは、家族でいろんなことを経験しながら、自分も蓄積できたんだ」
銭湯では、子供は子供のコミュニティーができていて、コイが泳ぐ池もあった。子供にとっても銭湯はいい遊び場だったという。
「銭湯の近くには、高砂部屋があって、水戸泉が弟子を連れずに、一人で来ていた。オレは水戸泉(現錦戸親方)と水風呂で“勝負”して、勝ったっていうのが自慢だよな。オレより先に出ていっちゃったんだから」
そうやって家族との時間を大切にしつつも、毎日原稿を書いた。新人賞を受賞しても、すぐ原稿の注文が来るわけではない。それでも、毎日書き続けることで、折れそうになる自分を励ました。受賞後の第1作が掲載されたのは、2年後の99年だった。そうやって地道な執筆活動が実を結ぶ。さらに3年後の02年、「あかね空」で直木賞を受賞した。