“天然”瀬川瑛子を「芸域広げる」と盛り立てた恩人の激励
そして19歳だった67年4月、先生が作曲された「恋の影法師」でデビュー。でも、なかなか芽が出なかった。ずっと思い悩みましたね。そんな時にいただいたのが、先生が手がけた「長崎の夜はむらさき」。リリースは70年3月でした。
この作品はおかげさまで50万枚を超す大ヒット。先生がくじけそうになる私を励まし続けてくださったからこそ得られた名曲です。「やっと私にもチャンスが巡ってきた」。そう思うことができて前向きに考えられるようになりましたね。もし、この曲がなかったら「矢切の渡し」にも「命くれない」にもたどり着けなかったかもしれない。それだけ私の歌手人生にとっては大きな一里塚でした。
■「そのギャップが芸域を広げる」と励まされた
もちろんヒット曲に恵まれながらも、山もあれば谷もありました。例えば、私が歌謡番組ではなく、バラエティー番組にたびたび出演した時は賛否両論。歌手のくせにと非難されたものです。
でも、新井先生は一貫して「歌う時は二枚目。でも、バラエティーに出たら“純天然”。そのギャップが瀬川瑛子の芸域を広げるんだよ」とおっしゃって、逆に励ましてくださいました。