破天荒さ消えた海老蔵 十八番の「助六」から迫力も消えた
市川海老蔵の「助六」が13年6月以来、4年ぶりに歌舞伎座に帰って来た。海老蔵が歌舞伎座に出るのも昨年7月以来だ。相手役の揚巻は、昨年襲名した中村雀右衛門が初役でつとめる。
大概の劇評家は海老蔵が古典を演じると批判するのだが、それでも助六だけは認めていた。家の芸である歌舞伎十八番の中でも、あまりにも海老蔵に適役で、まさに助六を演じるために生まれてきたかのような圧倒的な華やかさが、芸が未熟だの発声がなってないだのという不満を跳ね飛ばすからだ。
もともと「助六」は演劇としてドラマがあるものではない。脇役を含めた出演者全員の、演技力というより存在感が全てという演目だ。助六には、日本一の色男としての華やかさ、ケンカばかりしている不良少年としての荒っぽさ、そしてケンカをする理由を隠し持つ暗い影と、人に好かれるユーモアが求められ、海老蔵の助六には、そうしたものがすべてあった。
まさに舞台にいるだけで、「助六を演じている」のではなく、「助六を生きている」ようだった。それは演劇のあるべき姿とは違っているのかもしれないが、それこそが近代演劇とは異なる次元で成立する、「傾奇者」として始まった歌舞伎の魅力だと思わせる。スター主義の演劇でなければ成り立たないものが、海老蔵の助六にはある。