飯野矢住代誕生秘話<18>世間に求められるがままの「虚像」を忠実に演じていたのか
バンドマンのジョニー(その後のジョニー吉長)との同棲生活を解消した68年度ミス・ユニバース日本代表の飯野矢住代は、原宿のマンションを引き払い、実家と言うべき母の住む渋谷・円山町のアパートに戻った。とはいえ、アパートと銀座の往復という平穏な生活まで戻ったわけではなかった。破局から2カ月後、「週刊平凡」(1970年5月21日号)にて男性モデルと並んでフルヌードを披露している。「わたしの新しい恋」と題したそのフォトには、次の詩が添えられている。
《カレを知って ああカレを知って 「白蛇の妖精のお話」を信じるようになりました 地にもぐり 大地をはい 水に泳ぎ 木に登り 空中に飛ぶ 美しいヘビの姿は わたしたちのものです》(原文ママ)
何を訴えたいのか分かるようで分からない。文面から、新しい人生を歩もうという決意も感じるが、「あの頃の美しい想い出は返らない」と悔いているようでもある。余談になるが、矢住代の豊満な乳房に顔を寄せる長髪の男性モデル「宮下文夫」とは、のちに世界的キーボーディストとなる喜多郎らとプログレグループ「ファー・イースト・ファミリー・バンド」を結成し、後年はヒーリングミュージックの第一人者となるシンセサイザー奏者の宮下富実夫である。