「大怪獣のあとしまつ」は東映と松竹の共同配給、クレジット表記に滲む舞台裏
確かに筆者が見たシネコンでは相応に観客は入っていたが、上映中に笑う人はほとんどおらず、終わったあとも静かだった。この静かさがちょっと不気味だったが、こうも思った。笑いが期待されたかもしれない本作は、そもそも笑いを取ろうとしていないのではないか。
笑いが空回りして、滑りまくっているのとも違う。主に首相や関係大臣たちの描写では、笑いを押し出そうとする気配はあるが、そこで発せられるのは「言葉遊び」、否「言葉荒らし」(言葉が秩序を乱す)のような感じがした。意味のまるでない、つまり、何の波及効果も期待しない「言葉荒らし」の猛攻撃である。
その言葉の束は意外に緩くて奇態な描写の連なりとなり、ねじくれた空間性の現出につながっていく。そして、描写の連鎖は虚構としての現実描写とも境を接するパラレルワールドにも見えた。そこから政権のグロテスクな現実(これはリアルな現実)が二重写しになる。
あくまで二重写しになるだけで、リアルな政治的風刺劇を目指したわけではない。笑いなどの見る者のわかりやすい感性にも落とし込まない。あるのは、底知れぬ悪意の塊とでもいおうか。その塊を観客はひたすら浴びまくることになる。