『白鍵と黒鍵の間に』の濃厚なジャズ的リアリティ。そして「博」と「南」の間に…
ジャズを題材にした映画はとかく賛否が分かれやすいものだ。
例えば、2015年に日本公開されて評判をとったデイミアン・チャゼル監督の『セッション』。この映画をめぐっては、ジャズミュージシャン・文筆家の菊地成孔と映画評論家・脚本家の町山智浩の間にはげしい論争が起こった。菊地さんは「ジャズ屋」としての体感から音楽的リアリティの希薄さを指摘し、また内容も凡庸と断罪。一方、TBSラジオの番組で同作を「バトル映画」として絶賛した町山さんには、アメリカ在住の視点で映画と社会を観察し続ける絶対的な強みがあった。両者に共感を覚えたぼくは、でもこれって矛盾しないなぁと妙に納得した記憶がある。だからジャズ映画はおもしろい、とも。
ジャズピアニスト南博の同名回想録が原作の冨永昌敬監督の新作『白鍵と黒鍵の間に』を観ながら、ぼくがずっと反芻していたのは、そんなジャズ映画をめぐるあれこれだった。一定期間以上ジャズを聴き続けてきた人にはその名を知られる四谷の老舗ジャズ喫茶「いーぐる」で、日芸の映画学科在学中から計12年もバイトを続けた経歴をもつ冨永監督。ゆえに今作のジャズ的リアリティは濃厚である、とまず言いきっておこう。かれこれ四半世紀も前に、ぼくのプロデュース楽曲で南さんに圧巻のピアノソロを弾いてもらったことを懐かしく思いだしながら観た。