『Shall we ダンス』映画賞総ナメは40歳で…遅咲きのスターはいかにして名優になりえたか
だが、当時高円寺に住んでいた彼は、勤務地の九段下へ電車で向かう途中、体の具合が悪くなって欠勤することが多かった。要は、働きたい仕事ではなかったのである。東京は自分に合わないと思い始めた20歳の頃、まだ俳優座に所属していた仲代達矢の主演舞台「どん底」をたまたま見て、演劇のとりこになった。給料が安かったので観劇料が安い小劇場へ通ったそうだが、やがて自分も俳優の勉強をしてみたいと思うようになる。
そんなとき、仲代達矢が旗揚げした俳優養成所「無名塾」が入塾者を募集していることを知り、運試しのつもりで応募。この試験に受かって2期生として入塾。彼の俳優修業が始まったが、師・仲代の回想によれば試験の時、山で遭難して死にそうになる演技を課題で出したら、役所は大声を出し過ぎて貧血で倒れたという。慌てて仲代が駆け寄り、その後にパントマイムの試験もあったので、「少し休んでいたら」と言ったら、役所は「やります」と答えたとか。役所の声の大きさと、駆け寄ったときに「なかなかの二枚目だな」と思った印象が残って、仲代は演技経験がまったくなかった彼を合格させたらしい。
役所広司の本名は橋本広司だが、芸名は仲代が付けた。由来は彼が区役所で働いていたことからきているが、このとき彼の故郷から取った“諫早広司”も芸名候補に挙がっていたとか。ともあれここに俳優・役所広司が誕生し、彼は4年勤めた千代田区役所を辞めて、78年に演劇の世界へと飛び込んだ。役所はどんな新人俳優だったのか。それはまた次号で。 (つづく)
(映画ライター・金澤誠)