『シンペイ』で映画初主演 中村橋之助さん「歌舞伎役者」としての節目を振り返る
学生時代はゴルフに熱中し155センチで体重が95キロに
勘三郎伯父が亡くなったのはそれから1年後です。祖父が亡くなった後から勘三郎伯父の平成中村座の歌舞伎ロングラン公演が始まりました。私はそれまでは子役のような役ばかりでしたが、その舞台で、初めて大人の役をやらせてもらいました。それが終わったのが翌12年5月。翌月の6月にゴルフコンペがあり、勘三郎伯父に誘われ一緒に行きました。
ゴルフは青学の中等部からやっていました。最初は野球をやっていたのですが、歌舞伎のお稽古や本番があって忙しくなり、団体競技は練習に出られないので厳しい、個人競技をやりたいと思って2年からゴルフ部に入りました。野球とゴルフを兼部していた時期もあります。
高校ではゴルフ部だけにし、メチャクチャ頑張りました。学生ゴルフの試合にも出ていたので朝と休み時間はずっと走っていた。学校が終わった後やお稽古がない時は神宮の練習場に行き、夜は自分の部屋にパターマットを敷き、50回連続でカップに入るまでは寝ないというくらいのめり込んでいました。当時のベストスコアは70。
それでコンペに誘ってくれたのですが、その時に言われた一言が僕にとっては大ショックで。こう言われました。
「国生がお芝居を好きなのはよくわかった。ただ、今のままじゃお相撲さんの役しかできないぞ」
当時の僕は身長が155センチくらいなのに体重が95キロありました。食べる量がとんでもなかったんです。でも、僕は動けるデブ、運動大好きデブだったので、太っているという自覚がなかった。
勘三郎伯父に言われてから反省し、母親に協力してもらい、普通の人が食べる量に減らすようにしました。食べる物も夜は肉と野菜だけ食べるようにして。それで最終的に70キロまで落ちて、背も伸びました。それからはずっと同じ体形を保っています。
しかし、勘三郎伯父からアドバイスされ、痩せようとしていた、その年の12月、今度は勘三郎伯父が突然、亡くなってしまった。危篤だと知らされたのもゴルフをやっている時でした。那須野ケ原カントリークラブで練習ラウンド中。石川遼さんも出ているような試合だったんです。
連絡が来るとすぐ顧問の先生が気を使って駅まで送ってくれました。僕は何が起きているのかとずっと信じられないような思いでしたね。駆けつけて勘三郎伯父と対面しましたが、その光景も忘れることができません。
結局、頼りにしていた伯父も亡くなり、祖父に続いてお稽古していただくことがかなわなくなりました。
2人が立て続けに亡くなったのは高校にかけてのころのことです。大人の役をやるようになって、これから本格的にやっていくというタイミングでした。父とは祖父がお稽古してやりたいと思えるくらいの役者にならなきゃと、ずっと勉強を重ねていましたからね。本当に大きな出来事でした。
「シンペイ」は作曲家・中山晋平さんを描いた映画です。中山晋平さんは存じ上げていませんでしたが、お話をいただいた時はうれしかったですね。歌舞伎だけでなく、演劇や映画にもすごく興味がありましたから。問題は撮影期間2カ月の「スケジュールが取れるかどうか」でしたが、それもクリアできた。
初めての映画で主役ですが、そのプレッシャーはそれほどなかったですね。僕自身が持っているものを惜しみなく、全力で向かっていくつもりでしたから。ただ、映画で必要とされることに、対応できるかどうかという不安はありました。神山監督には、映画に慣れていないことがよさになって出ているとおっしゃっていただき、心強かったです。