村西とおるも野田義治も価値紊乱者ゆえの孤独を抱えていた
村西とおるが新たに創業したダイヤモンド映像だったが――。
「そこそこ可愛い子がいたけど、売れなかったですね。それに大手メーカーが問屋に圧力かけてきたんですよ。村西とおるの作品をとるんだったら、うちは卸さないよって」(日比野正明)
クリスタル映像時代、後発の遅れを取りもどそうと、村西とおるは20万円程度だった主演女優のギャラを一挙に100万円にした。秩序を破壊する者は、異端児扱いされる。村西とおるは常に異端者であった。
「村西とおるからどえらい目にあわされたメーカーの社長たちが、村西とおるの復活を恐れたんですよ。西村(忠治)さんも、勝手に独立しやがってっていう思いでしたでしょうし。村西さんは四面楚歌でしたよ」
価値紊乱者の孤独。
村西は野田に毎月300万円以上のプロデュース代をキャッシュで与えていたが、内実は火の車だった。堀江しのぶを失った野田義治にしても、プロダクション経営は火の車だった。バブル期の88年、村西とおると野田義治がいた青葉台は2台の火の車が疾走して燃え尽きようとしていた。