首位陥落寸前…巨人の迷走招いた原監督“相談相手”の不在
■「動き過ぎ」采配の原体験は
原監督いわく、監督としての「原点」は1974年、東海大相模(神奈川)を率いる貢氏が夏の甲子園で振った采配だ。初戦の対土浦日大(茨城)戦、1点を追う九回2死一塁の場面。あとアウトひとつでゲームセットの土壇場で、貢氏は一塁走者を走らせた。結果として盗塁は成功、次打者の適時打で同点に追い付き、延長十六回、土浦日大を3-2で下した。
このときの貢氏の采配が当時、高校1年生だった原監督には強烈な印象として残った。イチかバチかの奇策は指揮官としての原体験になった。
原監督はこの日、5番に高橋由を入れ、98試合目で実に75通り目のオーダーを組んだ。が、それも実らなかった。某選手が声を潜めてこう言っている。
「いいかげん、打順は固定して欲しいのが本音です。最近は阿部さんだけど、特に4番は固定しないと打線もつながらない。もう100試合でしょう。そろそろ、それぞれの役割を決めた上で、落ち着いて戦いたいですよ」
そんな声も原監督には届かない。あるいは届いていても聞く気がないのかどうか。8月上旬、球団の公式ホームページ上のコラムを更新。「チーム全体を鼓舞するために、チームを動かし続けます。少々動き過ぎと言われようが、自分自身も鼓舞するつもりで動き続けたいと思います」と宣言している。