男子マラソン低迷 箱根駅伝“悪者論”に名物TV解説者が反論
――箱根駅伝に限らず、実業団の陸上まで駅伝が中心になった本末転倒はどうして起きたんでしょうか。
「かつて、駅伝はトラック長距離やマラソンの練習の一環という位置付けでした。それが変わったのは、駅伝の方に人気があったからです。本末転倒を言うなら、需要と供給の関係に従ったということ。いままで通りファンは応援し、選手は鍛錬しています。混乱させているのは、選手とファンの間、すなわちメディアの評価じゃないでしょうか。何でもかんでも世界を目指せとかね。いまの選手は必ずしもそうじゃないし、大会にも世界の登竜門なんて位置付けはありません。若者にマラソンを目指して欲しいし、みんなが共有できる夢を持って欲しいですよ。でも、何を目指すかは選手の自由です」
■持久走は肉体に不条理
――マラソンに付き物の根性論、さらにはこのところ問題になっているパワハラについてはどうお考えですか。
「我々の時代に、先輩に殴られたり後輩を殴ったりしたのは事実。いま思えばめちゃくちゃでしたけど、あの時代は、はっきり言って、コミュニケーションとか話し合いという考えは世間一般に希薄でした。親子、師弟、先輩・後輩、どこでも力関係が絶対で、話し合いという日常生活が生まれたのは戦後でしょう。話し合いという手段がなかったから手が出た。いまの社会は民主主義、話し合うという手段があるんですから、殴っちゃダメです。ただ、問題は長距離の指導でね。この本でもしつこく書きましたが、マラソンのような持久走は肉体に不条理で、限界まで追い込む練習を積み重ねないと進歩しないんです。もうダメだというところで、あと1周を走る、それでようやく一歩前に進む。選手だけではできない、誰かが鬼になって追い込まないと。日本の名選手もコーチが嫌いでした。本にも書きましたが、おとなしい中尾隆行さんが、あの中村清さんに食って掛かったんです、走るのは俺だぞって。君原さんも宇佐美さんも、瀬古君も中山君も……でも、コーチの必要性は知っていた。死力を尽くす繰り返しが練習なので、はたから見たら暴力的に見えるかもしれない。それは叱咤激励なんです。でも、もはや手を出しては指導者失格です」