パ・リーグのDH制導入のきっかけになった米国人記者の指摘
「それでも、プロ入りしたときの目標が1試合で4打席立つことだったから、今度はそれを全うしようと思った。代打でのホームランのこだわりは捨てたね。それにしても、指名打者は楽やなあと思ったよ(笑い)。1打席目で失敗しても、残りの3打席のなかで結果を残せばよかったわけやから」
高井さんは指名打者としても本塁打を量産した。78年から2年連続で打率3割超えも記録したが、80年シーズンを迎えると、なぜか指名打者から外され、元の代打要員に戻された。
「さすがに、カチンときた」
しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
「それじゃ代打本塁打数の記録をまた伸ばすか」
■「おまえら、もうええぞ」
目標を自分の背番号「25」超えに設定した。81年5月の西武戦で、26本目の代打本塁打をマークして、目標をあっさりとクリアした。それから4カ月後の同年9月3日の西武戦。試合は2―2のまま九回裏の阪急の攻撃に移ろうとしていた。ベンチ裏では高井さんも含めて3人の代打要員が出番を待っていた。最初に声がかかった高井さんは、残った2人の代打要員に「おまえたち、もうええぞ。帰る支度をしてバスにでも乗っとけや」。