シューズの神様・三村仁司氏「必要なのは“厚底”ではない」
陸上の長距離界を席巻しているナイキ社製の厚底シューズ。大迫傑が自らの持つ日本新記録を更新した1日の東京マラソンでも、上位30人中28人が使用した。「履くだけで速くなる魔法の靴」――メディアはそう持ち上げるが、シューズ工房「M.Lab」代表の三村仁司氏はどう見ているか。五輪のマラソン金メダリスト、高橋尚子や野口みずきらを筆頭に今もトップランナーに“非厚底”の特注シューズを提供する「伝説の靴職人」「シューズの神様」だ。
◇ ◇ ◇
――厚底シューズが陸上界を席巻している。
東京マラソンでも上位30人中28人が履いていたのなら、ええ靴なんでしょう。結果が出ているわけですから。
―――本音ですか? 「魔法の靴」と書くメディアもブームに一役買っている。履くだけで誰もが速くなるというのは、いくらなんでも乱暴な気がします。
それはそうですね。もし、そんなええ靴があるなら、ボク、靴づくりやめますわ。大事なのは底が厚い薄いではなく、靴が選手の足に合っているかどうか。ボクは一番はフィッティングだと思っています。自分の足の形状、筋力、走り方……それに合った靴を履くことです。そうすれば、疲れにくい、故障しにくい、走りやすい。故障しなければ練習ができるし、走りやすければタイムが出る。これが一番大事。靴底ばかりが話題になり、その議論が置き去りにされているのは危険だと思います。靴はひとつの武器ではありますが、最終的に速い遅いは選手の力。故障をしにくいというのが大切です。
――はやりの厚底はソールにカーボンプレートが埋め込まれ、その反発力が前への推進力を生むといわれている。一方で故障のリスクを指摘する声がある。
みなさんがタイムを出しているわけですから、前に行くというのは確かでしょうね。ただし、それが最後まで続くかは各人の筋力による。故障リスクはわかりませんが、先ほども言ったように、足形や筋力、走り方に合ったものを履くべきで、(厚底を)履きこなすトレーニングが必要だとは思いますね。
――足の形状ひとつとっても、人によってかなり違う。
同じ選手の右足と左足でも違います。形もそうだし、大きさが左右でワンサイズ違う選手もいます。高橋尚子選手は脚の長さも違いました。
――三村さんのつくったシューズを履いて2000年のシドニー五輪で金メダルを獲得したQちゃんですね。
高橋は、右足に比べて左足が5ミリから6ミリ大きい。長さも左脚の方が8ミリ長いんです。
―――高橋選手といえば、三村さんとの関係で有名な裏話がある。
シドニー五輪の話ですね。レース本番は9月24日。その4カ月前です。彼女の靴をつくるため、身体測定をするとベスト体重から13キロもオーバーしていた。3月の名古屋国際女子で代表に決まって短いオフを過ごしていたんですが、なにしろ大食漢ですから。足も大きくなって、いつもとワンサイズも違った。どうするんや、この体重じゃ毎日60キロ、70キロは走らんとベストにならんぞ、と。やりますよ、と答えて合宿に行った高橋に40足の靴をつくりましたね。
――で、いよいよレース本番を迎えた。
右脚より左脚が8ミリ長い高橋はそのためにどうしても左脚が突っ張ったような着地になって負担がかかり、左足の裏にマメができやすかった。それを防ぐために、左右で底(ソール)の厚さ、クッションの違う靴をつくって高橋に渡した。それを練習で使って「走りやすい、足も痛くない、完璧です」と言っていたのに、五輪本番の2カ月前になって突然、「左右の高さを同じに戻してほしい。本番はそれで走りたい」と言い出したのです。
――五輪は目前です。(編集部注・このインタビューは五輪延期決定前に行われました)
アメリカでやっていた合宿に行って、高橋と2人で「いまさらなんでや? 本番でいきなり違う靴を履いたら記録は出んぞ」と言っても、言うことを聞かない。40、50分は説得したけど、高橋は「左右同じもので」と譲らない。それで私も覚悟を決めました。
金メダリスト・高橋尚子についたウソ
――覚悟?
それでは結果が出ないと確信していた私は、本人にも小出監督にも会社にも内緒で厚さの違う靴をつくり、「左右同じものにした」と彼女に渡した。私の独断ですから、辞表も書き、結果が悪かったら靴づくりの世界から去る覚悟でした。
――結果は金メダル。
トップで競技場に入ってきた高橋をスタンドで見たときは、喜びよりホッとしました。高橋には2日後に現地で行われたパーティーで真相を打ち明けました。「靴、どうやった?」「最高でした!」「そやろ、やっぱり靴の厚さを変えてつくってよかったわ」と言ったら、「えーーっ!」と驚いてました。
――04年アテネ五輪金メダリストの野口みずき、92年バルセロナ五輪銀メダル、96年アトランタ五輪で銅メダルの有森裕子のシューズもつくった。
野口選手はオーバーストライドになりがちで、足首の関節が柔らかい。そのため下りはストップをかけながら走らなければいけない。靴はできるだけ底が薄いものが合うんです。反発力の大きいものだと、余計にストライドが伸びてしまいますから。対して有森選手は歩幅が小さく、足の回転が速い独特のピッチ走法で走ります。瀬古利彦選手も同じですが、足を振り子のように使う。そのため、有森の走りには軽い靴は合わない。レース用は一般的に140グラムくらいですが、彼女のものは146グラムにしていました。
――選手によって千差万別ですね。
ソウル五輪が開催された88年ごろからマラソンシューズの軽量化が一気に進み、片足100グラムの靴も生まれた。でも、ソウル五輪代表の瀬古、新宅永灯至両選手は「軽すぎて足が空回りする」と敬遠し、もうひとりの中山竹通選手は大きなストライドが持ち味で逆に走りやすいと言っていた。理論的には靴が10グラム軽くなると、フルマラソンで約260キロカロリーは得をします。でも、軽いのが合わないという選手もいるのです。
イチローには参りました
――それくらい、アスリートの感覚もシューズ自体も繊細ということ。
靴の軽さで言えば、イチロー選手が印象に残っている。オリックス時代からマリナーズ時代の途中まで彼のスパイクを私がつくりましたが、毎年のように「あと5グラム軽くしてください」と注文された。普通のスパイクはだいたい450グラムくらい。イチローはオリックス時代にすでに285グラムと超軽量スパイクを履いていたのに、もっと軽く、もっと軽く、でマリナーズの最後は265グラムまでいった記憶があります。当然、軽量性と耐久性は反比例します。最終的にはイチローに年間70足のスパイクをつくった。メジャーは162試合、約2・3試合で1足のスパイクを履き潰す。あれには参りました。
―――マラソンで言えば、三村さんは1972年以降の五輪でメダルを獲得したすべての日本人選手(のべ5人)のシューズをつくってきた。世界選手権や海外選手を含めれば20人以上のメダリストがいる。が、4月30日から適用される世界陸連の新規定では、試合で使用できるのは「既製品」のみに制限された。つまり、三村さんが心血を注いできた特注シューズは使用できない可能性がある。
理解に苦しみます。規定内で選手は自分に合った靴を履く。故障防止の観点からいっても当然じゃないですか。それが規制されるのだとしたら、それはアスリートファーストじゃありません。
(聞き手=森本啓士/日刊ゲンダイ)
【写真ギャラリー】東京五輪延期を受け、会見を行った森会長
【写真特集】大迫傑 日本新で五輪代表有力に
【写真特集】2019マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)
【写真特集】悪天候の中、大迫がまさかのリタイア 東京マラソン2019
▽みむら・ひとし 1948年兵庫県生まれ。県立飾磨工時代に長距離選手としてインターハイに出場。高校卒業後の66年にオニツカ(現アシックス)に入社。74年に別注シューズの製作を開始、高橋尚子や野口みずきら数々のメダリスト、アスリートにシューズを提供した。アシックスを定年退職した2009年、シューズ工房「M.Lab(ミムラボ)」を設立。18年からはニューバランスの専属アドバイザーも務めている。04年に厚労省が認定する「現代の名工」に選ばれた。