ボロボロの菅野は決勝で10失点 甲子園には届かなかった
後に「正直、早く終わってほしいと思っていた。こんなに苦しいのは、早く終わってくれと。死ぬと思いました。それくらい追い詰められていた。無理っすよ。あんなに投げられない……」といった菅野の本音が神奈川新聞に掲載された。
選手層、戦術などを総合的に考えれば、「菅野温存」で相手の虚をつけたし、腹をくくって欲しかった。
私は元プロだが、起用法は門馬監督に任せるべきで、父兄から意見をするのは失礼。だから、長男、次男が在籍している間、口を出したことは一度もない。
そうはいっても、高校野球は監督の選手起用や戦術によって結果が変わってくることを痛感した試合でもあった。
菅野がいたあのチームを甲子園に行かせたかった――。今でも悔しさがこみ上げてくる。
■「高校からプロに行きたい」
東海大相模は翌08年の夏も県大会決勝で敗れ、夏の決勝7連敗。勝ち切れない時代が続いた。この苦い経験を経て11年のセンバツを制し、15年には夏の甲子園で優勝している。