高畠導宏さんが原点になった 両打ち転向と指導者のイロハ
私はこの指導がとても新鮮に思えた。当時は監督、コーチの言うことは絶対だった。コーチから頭ごなしに指導され、選手が反発する姿をプロ生活で何度も目にしてきた。
しかし、高畠さんは違った。指導を押し付けるのではなく、選手の目線までグーッと下りてきて、成長度やその時々の気持ちを尊重してくれた。選手のことを理解しようという姿勢がひしひしと伝わってきた。その上、辛抱強く、付きっきりで指導してくれる。
「高畠さんのためにも、何が何でも左打ちを習得するぞ」
次第にそういう思いが強くなっていった。
通算で8年間、そばで見てきた高畠流のアプローチは、私が指導者になってから、大いに参考にさせてもらっている。
高畠さんがチームを離れてからも、年に1度は一緒に食事をしていた。プロの現場から離れ、教員免許を取得した上で、高校野球の指導者として甲子園を目指すと、意欲を燃やしていた。2004年に志半ばで病に倒れられた時は、涙が止まらなかった。
あの時、川崎球場で打ち込みを続けた私と高沢秀昭さんは、後に首位打者を獲得した。先輩の練習する姿に刺激を受けたし、もし私一人だけの特訓だったら、ここまで練習できたかどうかはわからない。その後も早出練習に向かうと、必ずといっていいほど、高沢さんが先に汗を流していた。
スイッチ転向で一軍の足掛かりをつくることができた私は、プロ3年目の1984年に初めて規定打席に到達した。多少のミスがあっても我慢強く起用し続けてくれた監督が、稲尾和久さんである。