初キャンプで「地獄のランニング」プロ入り2度目のカルチャーショック
■同学年の平野と打ち解けて…
宿舎では同学年の平野謙が同部屋だった。私は大学入学時に1浪しているため、最初は敬語で話していたが、「中尾ちゃん、その言葉遣いはやめよう。同学年なんだから、普通にしゃべってよ」と言ってくれて、すぐに打ち解けた。
以降、ゴルフ、マージャン、食事、酒の飲み仲間になった。私が2年目にMVPを受賞した82年に、平野もレギュラーに定着すると、51犠打で当時の日本記録を樹立した。同じ年に世に出られたのも何かの縁だった。
この時の正捕手は木俣達彦さん。中日は「野武士野球」といわれた重量打線を谷沢健一さん、大島康徳さん、田尾安志さん、宇野勝、モッカ、そして木俣さんらが引っ張っていた。
打撃では勝てないと感じた私は、守備を磨くことを決意。キャンプから自信があった肩、キャッチング、ブロッキングといわれるワンバウンドの処理、走者のブロックなどを徹底的に反復した。
今はコリジョンルールで禁じられているが、走者が捕手に体当たりすることが許されていたため、屈強な外国人が突っ込んできた時や、スパイクの歯を向けてスライディングをしてきた時のかわし方を教わって武器にした。1年目は木俣さんとの併用で116試合に出場。盗塁阻止率は4~5割くらいだったと思う。
近藤貞雄監督は「センターラインの守備を強化する」という方針を打ち出した。捕手の私もセンターの平野も、近藤さんが監督じゃなかったら、レギュラーになれていなかったのではないか。