藤川球児は「巨人の星」のようなギプスを装着して投球練習をしていた
2004年から阪神の二軍でコーチを務めた3年間で印象的だったのは、「火の玉」と称された直球を最大の武器に、日米通算245セーブを挙げた藤川球児である。
私が就任した03年オフ、星野仙一監督に代わり、1985年の日本一メンバーでもある岡田彰布監督が就任した。藤川は98年ドラフト1位入団の期待の右腕だったが、03年までの5年間で主に先発として2勝6敗。直球は145キロ前後で右肩や右肘に不安を抱えており、球団に「構想外」の烙印を押されていた。ヤクルト、広島からトレードの打診があると聞いた。最速156キロの「火の玉ストレート」はまだ誕生していない。
それを「球児は使える」と差し止めたのが、2000年から3年間、二軍監督を務めた岡田新監督だった。先発すると、序盤は良くても中盤に打たれる傾向があったため、「リリーフで短いイニングで使う」と宣言。九死に一生を得た藤川はしかし、04年春のキャンプで右肩を痛めて離脱した。岡田監督は阪急時代に剛速球投手だった山口高志二軍投手コーチに再生を託した。山口コーチは藤川にこう言ったそうだ。