巨人2年目は開幕を二軍で迎え、3年目は登板機会がさらに減った
近鉄時代は門限などなかった。いや、正確に言えばあったのかもしれないが、ないに等しかった。
しかし、巨人はキャンプの門限も厳しかった。なので、門限を破る人などいなかったように思う。まあ、いたとすれば、よほど高度なテクニックでバレなかったというだけで。
特に若手選手に対しては、門限までに戻ってきているかどうかチェックしていたらしい。球団フロントの人が、若手選手の部屋を回って中にいるか確認していたというのだ。
見回る人が、言われるがままに見に行くから、間違えることだってある。中にはコーチの部屋をノックして、「コーチの部屋まで来るんじゃない!」と怒られた人もいたという。当時30歳だった私の部屋には見回りに来なかったが。
さて、移籍1年目の1995年は主にリリーフで24試合に登板。しかし、オフに「ゲンちゃん」こと左腕の河野博文さんがFAで加入。2年目の1996年はキャンプ、オープン戦でリリーフとして残ることもできず、開幕を二軍で迎えた。
この年はシーズン中盤まで首位が広島で、巨人は最大11.5ゲーム差をつけられていた。しかし、夏場から追い上げ、私は水野雄仁とともに一軍に昇格。長嶋監督は川口和久さん、宮本和知さん、河野博文さん、私の左腕4人を「レフティーズ」と名付けてブルペンに置いた。