野茂英雄は高校時代に1位指名を模索した 2年夏に完全試合達成、彗星の如く現れた“トルネード”
そんな怪腕を鈴木が見逃すはずはなかった。
「高校生の時点で、1位で指名しないと取れないと思っていました」と、こう続ける。
「背丈は180センチ以上あって、独特のトルネード投法。僕が試合を見に行くと必ず勝ちましたね。何より物凄いのはストレートだけで相手をねじ伏せるところ。高校時代はフォークは投げなかった。それでもバッタバッタと三振を奪う。140キロを超える伸び上がるボールが捕手のミットをバシンと叩く。打者は明らかに野茂の球を怖がっていました。バント処理などのフィールディングはうまくなかったですけど、とにかくモノが違いました」
86年、3年夏の大阪予選は5回戦で興国に敗れ、ベスト16止まりだった。高校3年間で甲子園出場はかなわなかったが、着実に成長を遂げていた野茂の存在を他球団も把握していた。鈴木も野茂を指名するべく動いた。
が、両親と学校の意向もあってプロ入りはせず、新日鉄堺に入社した。
「成城工はもともと新日鉄堺とつながりがありました。その時は野茂とセットで他の生徒も取ることになっていました。野茂が行くことで枠が増えたのですから、プロに行けば他の選手が割を食う。ちなみに、新日鉄堺は根本(陸夫)さん(管理部長=当時)が西武の監督になる前に面倒を見ていた。広島の監督を72年に辞めて、鉄鋼関係の仕事に携わっていた時に新日鉄堺との接点ができ、野球を教えていたそうです。当時の中川善弘監督は根本さんの教え子でしたけど、そんな関係があっても、野茂側の意思は固かったですね」
タラレバの話ではあるが、もし野茂が高卒プロ入りを表明していれば、ライオンズブルーのユニホームでトルネード伝説をつくっていたことだろう。
投手の逸材といえば、斉藤和巳(南京都高=95年ダイエー1位)も鈴木が熱心に追いかけた選手のひとりだ。