中学時代の栗山巧を打撃指導したことがある 他のスカウトは猛反対も編成責任者に「絶対に活躍します」
鈴木が担当した4位以下の下位指名選手で最も活躍した一人は、今もユニホームを着ている。
育英高(兵庫)から2001年ドラフト4巡目で指名、21年に2000安打を達成した栗山巧(40)である。
1学年上の中島(裕之=宏之)とは対照的に華々しい経歴を持つ。
甲子園常連校だった育英で2年時に甲子園春夏連続出場。夏は3番を任され、ベスト4に進出した。
しかし、3年時は一度も甲子園の土を踏めなかった。夏の兵庫県大会は5回戦で報徳学園に敗退。3点を先制した直後の四回2死満塁の守備で、栗山が右中間の打球をグラブの土手に当ててしまい落球。同点に追いつかれると、チームは逆転を許し、最後の夏は幕を閉じた。
鈴木も当然、その試合を見ていたのだが、ドラフト直前のスカウト会議で、他のスカウトの反対にあった。
「3年春のセンバツ期間中に育英が上宮と練習試合をやったんです。たしか育英のグラウンドでした。上宮は国木(剛太=01年広島6巡目指名)という注目の左投手が投げるので全員で見に来てくれと言って、編成トップの浦田さんやスカウトを連れて行ったんですけど、みんな初回の1打席だけ見て帰っちゃって(苦笑)。僕がスカウトをやっていたころは、ドラフト直前の会議まで各スカウトが自分の推薦候補を隠していた。それもあって、私が栗山の名前を出すと、他のスカウトは猛反対でした。県大会のエラーで負けたイメージもあったのでしょうけど、見てもないのに反対ですから(苦笑)。西武はスカウトの多数決で指名選手を決めるケースもあったんですけど、僕は多数決が一番嫌だったんです。3年間見続けた僕と、担当外のスカウトが同じ1票なんですから。根本(陸夫)さんが『練習に足を運べ』と言ってたのがよくわかります。中島もそうですけど、練習見とったら凄いんですから。栗山に関しては最後は『絶対に活躍します』と編成責任者の浦田さんに強く言って、ゴーサインが出た。その年は自由獲得枠も含めて4人しか指名していませんが、4番目までで取ることができたんです」
鈴木をここまで熱くさせたのは、栗山が中学時に在籍していた神戸ドラゴンズ時代から直接指導をするなど、よく知る選手だったことも大きい。あまり自慢めいたことは言わない鈴木も、「おそらく中学生を見に行ったのは僕が初めてだと思います」と話す。