最後のドラ1炭谷銀仁朗の母親の隣で“一般人のフリ”して何度か一緒に試合観戦…親とは極力接触しない理由
「ドラフト候補の親に会うこともありましたけど、多くは一回も会わずに指名しています。親を説得しないと確約が得られない時は仕方ないですけど、完璧な仕事をしようと思ったら会わない方がいいんです。会うと私の動きが絶対に漏れるからです。だから炭谷の時も、一般人のフリをしました。学校も行く時に前もって連絡することはほとんどない。調査に行ったりする時だけです。一生懸命仕事している他球団のスカウトだったら、私のそうした動きを見て、狙いが分かりますから」
つまり炭谷のスカウティングは、鈴木にとっての王道パターンだった。
炭谷は高校時代、甲子園出場を果たせなかった。捕手失格で三塁に回された時期もあった。3年夏の京都大会は準決勝で敗れたものの、大会記録の4本塁打をマークした。
肩の強さ、送球の速さはもちろん、強打の捕手として、「将来的には中軸を打てる」とスカウト会議でプッシュした。
「球団として捕手を探していた中、当時の伊東勤監督の後押しもあって、1位指名することになりました」