“遅きに失した”Jリーグ人件費抑制策「プロABC契約」撤廃…25年前に施行されたルールをやっと変更
Jリーグがスタートした1993年。ヴェルディ川崎(現東京V)と横浜マリノス(現横浜F・マリノス)が覇を競い、人気・実力とも群を抜いていた。
当時、選手を引き抜かれないために、高額年俸で引き留めることが日常茶飯事だった。選手の年俸はどんどん高騰し、大学を中退してJリーガーとなった選手が、新車のポルシェを乗り回すようになった。
市民球団としてスタートした清水などは「利益を税金で持っていかれるなら選手に還元しよう」という球団トップの放漫経営がたたり、バブル経済の弾けた1997年には、運営母体のテレビ静岡が経営から撤退したために経営危機に陥った。
累積赤字は17億円とも言われたが、幸いにも地元企業の鈴与グループが"白馬の騎士"となり、経営を建て直して今日に至っている。
この年、川淵三郎・初代チェアマンは「身の丈にあった経営」をスローガンにして、契約選手を25人に制限するなど人件費の抑制策を提唱した。1998年10月には、ゼネコン準大手の佐藤工業が、横浜フリューゲルスから撤退することでクラブの存続が危ぶまれ、横浜マリノスと合併することが発表された。