上映時間の大半は真っ暗な坑道内
今年も山形では国際ドキュメンタリー映画祭が開かれている。隔年開催で世界に名高いこの映画祭で前回高く評価された日本のドキュメンタリー作品が、来週末封切りの小田香監督「鉱 ARAGANE」。
地下300メートルにひそむボスニアの炭鉱。カメラはいきなりその内部に入り込み、1時間強の上映時間の大半を真っ暗な坑道と採掘場で過ごす。絶え間なく耳をふさぐ騒音。ときおり映し出される坑夫たちの顔は煤で真っ黒に汚れ、誰だか区別もつかない。ユニークなのはその模様をナレーションも説明字幕もなく、ただひたすら坑内を凝視しつづけること。言葉でいうと変に観念的な映画が想像されるかもしれないが、実見すると採掘機を駆使して坑夫たちが挑む石炭層の存在感に圧倒されて目が離せなくなる思いを誰もが抱くはずだ。
石炭産業は日本でも昭和30年代までは第1次産業の雄として存在感を放っていた。その記憶が、体験したこともない世代の心中にまで蘇るのだろうか。いや、むしろそんな絵解きや理屈を吹き飛ばす存在の厚みが画面からあふれ出すのだ。
W・フィーヴァー著「イングランド炭鉱町の画家たち――〈アシントン・グループ〉1934―1984」(みすず書房 5800円)は往時の英国の炭鉱町で画塾に学んだ坑夫たちの絵を論じたユニークな美術史。映画が明らかに鉱山に外部から接する人間の「目」の驚異を表すのだとすると、本が見据えるのは鉱山とともに生きる者たちの当事者ならではの「息づかい」。どちらかひとつではなく、どちらも見るに値する。
<生井英考>