畜産家との会話から生まれたドキュメンタリー
東日本大震災の後、銀座など東京の盛り場で、ハンドマイクを手に通行人に語りかける男性がいた。
政府と東電に畜牛の殺処分を一方的に決められた20キロ圏内の畜産農家。手塩にかけた牛を何十頭も一気に殺せとは何事かと反発。肉牛として売れないのはやむを得ないが、家畜は工業製品じゃない。せめて原発被ばくの資料調査に生かす道を残してくれないか――。これがあの男性の訴え。しかしこの話題、大手新聞やテレビはわずかに触れただけ。その“空白”を埋めるドキュメンタリーが今週末都内封切りの「被ばく牛と生きる」だ。
震災から5年半経ったいま、関連のドキュメンタリーはめっきり減ったが、松原保監督はクラウドファンディングでも資金をかき集め、足かけ5年間を費やしたという。取材のきっかけは500頭の騎馬がそろうこの地伝統の「相馬野馬追」。そこで知り合った畜産家との会話からこの地道なドキュメンタリーが生まれた。
それにしても改めて思うのは、大事件でもあっさり忘れてしまう世間というもの。下川正晴「忘却の引揚げ史――泉靖一と二日市保養所」(弦書房 2200円+税)は、終戦直後、朝鮮半島から引き揚げの途上ロシア兵にレイプされた女性たちを保護した福岡県二日市の救護施設の物語。元毎日新聞の記者が丹念に取材した歴史ノンフィクションだ。施設の開所に尽力したのが日本の文化人類学界を築いた泉靖一の若き日だったという事実にも驚かされる。後になれば誰もがなかったことにする歴史の暗部の陰にも、小さな光は宿っている。
<生井英考>