「吉原はスゴイ」堀口茉純氏
「日本一の遊郭」だった吉原は江戸時代、リアルにどんな町だったのか。
「江戸に詳し過ぎるタレント」として注目を集める著者が、「懺悔」を込めて書いたのが本書だ。
「白状すると、私自身、吉原に長くネガティブ観を持っていました。映画『吉原炎上』でも遊女を演じる女優たちのヌードやいじめなどの描写が印象に残り、遊女にとって悲惨な所だったと思い込んでいたんです。ところが、吉原の遊女たちの投げ込み寺・浄閑寺に行った時、有名な『生まれては苦界 死しては浄閑寺』の句碑を見てハッとした。昭和38年の建立で、その句が作られたのは大正時代だったからです。私の吉原観は、明治以降の作品によって形成された偏ったものだと気づいたんです」
著者は江戸時代に書かれた吉原に関する文献を片っ端から当たった。太夫や花魁は男性ばかりか女性も憧れる「大スター」だったと考え改め、吉原独特のしきたりや遊女の魅力を紹介する本書を上梓した。
江戸前期の遊女の最高位「太夫」と遊ぶには、現在に換算すると1回につき100万円以上払って登楼し、3回目にようやく同衾できた。おのずと客は高級武士に限られたが、質素倹約を旨とする享保の改革を機に大衆化が進み、太夫は絶滅。元は下位だった遊女の中から花魁が輩出され、中・下級の武士や商人に手が届くようになっていったという。
「遊女は下級であっても品位にあふれていました。大衆化するにつれ、衣装や髪形が派手になっていくんです。私が一番すごいと思ったのは、その頃に書かれた随筆『ひとりね』の中に、不老不死の妙薬の製法を『島原(京都の遊郭)の遊女の糞を吉原の遊女の尿で煮る』と紹介されていたこと。正直ドン引きですが、当時の人々にとって、遊女はそれほど憧憬に値する存在だったんですね。吉原のお客となるには、剣道や柔道と同じように『色道』というものが必要でした。お金さえ払えばいいのではなく、“通”や“意気”といった精神性が重視されました」
今の風俗店で遊ぶ感覚とはまったく違い、性行為を大きな目的としなかったらしい。馴染みになった客と遊女は吉原の中で「疑似夫婦」となるため、「次回は他の女のところへ」は浮気とみなされ、ご法度だったという。
「他の遊女と密会しているところがばれた場合は、情状酌量の余地なし。徒党を組んで待ち伏せされ、男は容赦なくボコボコにされました。妓楼に連れ帰り、着物を脱がせて女装させ、寄ってたかって罵詈雑言を浴びせながら顔に炭で落書きされた。慰謝料も払わせた。片や、遊女側は、何人ものお客と『疑似夫婦』となっているのに(笑い)」
遊女はもちろん下層の出自の女性たちだったが、力関係において、客より上だったのだ。現在のアイドルのように、スター名鑑も出回った。
「吉原は運と努力次第で上を目指せ、稼げる職場。吉原の遊女はキャリアウーマンの先駆けでした」と著者は説く。
毎年8月には、吉原の一部の通りを一般女性や子供にも開放し、踊りや即興芝居を行うイベント「俄」が開催されたそうだ。
(PHP研究所 940円+税)
▽ほりぐち・ますみ 歴史タレント、歴史作家。東京都足立区生まれ。明治大学卒業後、女優として舞台やテレビドラマに出演する一方、2008年に江戸文化歴史検定1級を最年少で取得。著書に「江戸はスゴイ」「TOKUGAWA15」などがある。