「エドガルド・モルターラ誘拐事件」デヴィッド・I・カーツァー著 漆原敦子訳
1858年6月、ボローニャに住むユダヤ人商人のモルターラ家に2人の警官がやってきて、当家の6歳の息子エドガルドを連れ去ってしまう。異端審問官の命により、時の教皇ピウス9世のもとへ連れて行くというのだ。このイタリアの一地方で起きたユダヤ人少年の誘拐が、やがてヨーロッパからアメリカ大陸に及ぶ広範囲な論争を引き起こし、国際的なユダヤ人の自衛組織の設立を促進する転換となる。本書は一般には知られることのないこの事件の経緯を詳細に跡づけた歴史ノンフィクションだ。
ともかく不思議な事件だ。まずこれが起きた当時のイタリアはイタリア統一運動(リソルジメント)が進行しており、旧来のローマ教皇領と対立していた。リソルジメント側はこの事件を教皇側のスキャンダルとして利用する。また、フランス革命以後広まった信教の自由と基本的人権を求める自由主義的な思潮を背景に、教会を批判する新聞と教会を擁護する新聞の間で論争が繰り広げられる。
だが、何より不可解なのはエドガルドが連れ去られた理由だ。彼が1歳のころ病気になり、それを助けようとカトリック教徒の召し使いが赤ん坊に洗礼を授けたことが異端審問官に伝わったのが事の発端である。しかしその洗礼の話は極めて怪しく、それを理由に両親は再三息子の返還を嘆願するが、なぜかエドガルドは家に戻ろうとしない。洗礼を巡る関係者の証言はまさに「やぶの中」で真相は不明。さらに後年、エドガルドの父が殺人事件の被疑者となるのだが、この事件も謎に包まれている。
事件と同じ年に、ある少女が聖母マリアを見たという「ルルドの奇跡」が起きている。どちらも近代が始まろうとしている時代の裂け目が生んだ歴史のあだ花のようだ。<狸>
(早川書房 3000円+税)