「9つの脳の不思議な物語」ヘレン・トムスン著、仁木めぐみ訳
帽子と妻の顔との区別が付かず、妻の頭をつかまえて持ち上げてかぶろうとする――人間の脳が引き起こす不思議な現象を数多く紹介して、常識に揺さぶりをかけたのは「妻を帽子とまちがえた男」「火星の人類学者」などのオリバー・サックスの諸作だ。しかし、世の中にはまだまだ不可思議なことはあるもので、サックスに憧れてサイエンスライターになった本書の著者は世界中の「奇妙な脳」の持ち主に会いに行く。その記録が本書。
登場するのは次の9人。①これまでの人生のすべての日の出来事を鮮明に覚えている“完全記憶者”②自宅のトイレからキッチンへ行こうとして迷子になってしまう脳内地図の喪失者③色覚障害であるにもかかわらず出会う人の多くにカラフルなオーラが見える共感覚者④極めて粗暴だったのが一夜にしてやさしく穏やかな性格へ激変した元詐欺師⑤聴力を失った後に脳内で絶えず音楽が鳴り続けるようになった絶対音感保持者⑥突如として自分がトラに変身したと思って人を襲いたくなる狼化妄想症者⑦何十年もの間すべての現実感覚を失った状態で生きている離人症者⑧自分には脳がなく、死んでいると3年間思い込んでいたコタール症候群疾患者⑨他人が経験した触覚や感情を自分の身体でも感じてしまう医師。
こう並べるだけでも奇妙さは伝わってくるが、⑧の患者は、起きているのに脳の活動は昏睡状態の人と似ているというから驚き。⑨の医師は、自らが手術を手がけている時に患者の痛みを感じてしまうのだからその苦労たるや……。確かにはたから見れば、「奇妙」かもしれないが、9人はそれぞれ自分の脳と折り合いをつけて生きている。本書もまた、人間の心の果てのない奥深さを教えてくれる。 <狸>
(文藝春秋 1950円+税)