「東京レトロ写真帖」秋山武雄著 読売新聞都内版編集室編
著者は東京・浅草橋の老舗洋食屋の店主。1953年、訳あって、先代の父親から3カ月前に入学したばかりの高校を中退して家業を手伝うよう頼まれて以来、店に立ち続けてきた。一方で、開店前に趣味のカメラを手に自転車で東京中を走り回り、撮影を続けてきた。70年にわたって撮りためてきた10万枚以上に及ぶその作品から選りすぐりを紹介しながら、当時の思い出を語るフォトエッセー集の第2弾。
1枚目は、江東区の豊洲から東京湾越しに眺めた東京タワー(写真①)。撮影された1961年当時、タワーの周りにはビルなどはひとつもなく、豊洲からでもその全景が見える。
また現在はタワーマンションやオフィスビルがひしめく豊洲も、埋め立てが進んでおらず、週末にはハゼ釣りをする家族連れで賑わった(1967年撮影)。
続いて、駅周辺に各新聞社が点在し、著者にとっては「新聞社の街」というイメージだったという有楽町(写真②)。西口にあった毎日新聞社内のサン写真新聞社は写真のコンテストなどもやっており、足しげく通ったという。
撮影は1958年。当時、新聞社の屋上では支局との連絡手段として伝書鳩が飼われており、運動のために一斉に空に放たれる鳩を撮ろうと出かけたが撮影できずに、代わりに街並みを撮ったものだ。
記者たちが足代わりに使う黒塗りの自動車がずらりと並んだオフィス街の風景とは対照的に、同じ有楽町でも東口駅前の「すし屋横丁」はまだ闇市の名残が色濃い。
他にも、人も車もまばらで、周囲の建物も2階建ての木造だけという閑散とした日暮里駅の駅前ロータリー(1961年)、映画の街といわれた日比谷の中心的な建物だった「日比谷映画劇場」の閉館前の雄姿(1984年)、大森海岸の海苔干し場の風景(1957年)、今では信じられないが園内の入場者の間を飼育員を乗せて散歩する上野動物園のゾウ(1968年=写真③)、浅草のランドマークだった森下仁丹の広告塔(1977年=86年解体)、そして複雑な骨組みが装飾品のような美しさを誇っていた隅田川にかかる「新大橋」を自動車とともに進む都電(1967年)など。
当時若く、世間知らずだった著者にとっては、行く先々で出合う街並みや人の営み、その全てが新鮮に「まるで東京の街を舞台にした、一本の映画をみているよう」だったという。当時の人々には何げない日常の風景が、半世紀を経て、現代の読者にもまた、撮影時の著者のように、新鮮な驚きを与えてくれることだろう。
ガラス工場の敷地内の砂山で豪快に遊ぶ子供(1965年)や、若い人に見せたらメイド喫茶と勘違いされたというデパートの食堂で働くユニホーム姿のウエートレス(1957年)、商店街で行っている日掛け貯金の集金箱を持って郵便局に持参する男性(1986年)など、当時の人々の営みも克明に記録。
同時代を生きた人には懐かしく、作品に刺激されて心の奥深くに眠っていたさまざまな思い出が蘇ってくるに違いない。今や遠くなった昭和の東京がここにある。
(中央公論新社 1100円+税)