川本三郎(評論家)
9月×日 北村薫さんの「雪月花」(新潮社 1500円+税)を読む。「謎解き私小説」と副題にあるが、博識の北村薫さんの文芸随筆(いわゆるコーズリー)として楽しく面白い。
ホームズの相棒がワトソン博士であることは誰でも知っている。では本名は?ホームズの読者ならすぐに分かる。ジョン・H・ワトソン。
では、このHは何の略か。これは普通誰も知らない。考えたこともない。
北村薫さんはさまざまな本からこの謎に挑む。ある本によれば「ヘイミッシュ」の略とある。聞きなれない名前。探るとミステリー作家ドロシー・L・セイヤーズの説と分かる。しかし本当にそうか。さらに調べるとどうも原作者のドイルはこれについて書いていないことが分かってくる。
あるいは萩原朔太郎の詩にある「四輪馬車」を「シリン」と読むか「よんりん」と読むかについての探求も面白い。
あるいはまた江戸時代の有名な句「雪の日やあれも人の子樽拾ひ」の作者についての考察も。
今日、エッセーというと身辺雑記を書くものになってしまったが、本来随筆は、本をめぐる話を書くもの。大変な読書家である北村薫さんのまさに真骨頂。
10月×日 徳岡孝夫、ドナルド・キーン著「三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行」(新潮社 590円+税)を読む。
三島と親しかった2人が、没後1年の1971年に三島ゆかりの奈良の円照寺(「天人五衰」の月修寺のモデル)をはじめ倉敷、松江、津和野、京都を旅したときの記録。
日本の美を大事にした三島が、日本の美術や仏像になんの興味もなかったという意外な事実を始め、太宰治が嫌いだったこと、逆に森鴎外を尊敬していたことなど三島について縦横に自由に語られる。
なぜか関西の男を嫌ったというのが面白い。ちなみにミステリーが嫌いでもあった。
徳岡孝夫さんは元「毎日新聞」「サンデー毎日」の記者。三島に呼ばれ、あの11月25日に市ヶ谷にいたという。