「A RED HAT」髙橋健太郎著
2017年、現代の治安維持法と呼ばれた「共謀罪」の成立に危機感を抱いた写真家の著者は、今から80年近くも前の1941年、北海道・旭川の美術部の学生たちが絵を描いただけで治安維持法違反に問われ逮捕された「生活図画事件」のことを知る。
本書は、その事件の当事者である2人の元美術部員の今を追った写真集である。
2人とは、旭川師範学校美術部の学生だった菱谷良一氏(当時19)と松本五郎氏(同20)で、事件の発端は1932年に同校に美術教師として着任した熊田先生の逮捕だった。熊田先生は、ただ美しい風景画を描いて地方の公募展に入選することで満足していた美術部員に、自分たちが生きている社会を見つめさせる美術教育に取り組む。特別高等警察は、その教育の在り方を「生活図画」と呼び、問題視した。
卒業目前だった2人は熊田先生の逮捕に動揺した学校によって取り調べを受け、他の部員らとともに留年させられる。そして8カ月後、「熊田のことを聞きたい」という理由で連行されたまま、2人は共産主義を信奉したと問い詰められ逮捕、旭川刑務所に送られる。真冬には氷点下30度にもなるという刑務所で1年3カ月を過ごし、釈放された。
学校を退学扱いされた2人は出所後に出兵。
松本さんは、終戦後に治安維持法の廃止で教員免許を取得することが許され、教員となり校長まで勤め上げる。
一方の菱谷さんは、会社員として働き、ともに定年後も絵を描き続けている。
当時、問題視された彼らの絵は特高に押収され戻らず、絵画展の記録として撮影されていた写真だけが残っている。特高は、若者が語り合う絵では人物の顔が国家に対して反抗的な態度を示している、また別の絵では描かれた本が「資本論」を読んでいると解釈するなど、でたらめな容疑で2人を共産主義の信奉者に仕立てたという。
それから80年近くを経た2人の生活をカメラは淡々と追う。
絵描き旅行先でスケッチブック、自宅アトリエではキャンバスに向かう姿をはじめ、入浴やごみ捨て、ヘッドホンをして好きな音楽を聴きながらヒゲを整える菱谷さんの日常。絵画サークルで生徒たちを教えたり、ラジオ体操や公園でひ孫と遊ぶ松本さんの日常。そんなページの合間に事件の舞台となった旧旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)など、彼らの縁の場所のスナップや、個展会場や国会請願のために上京した際に両氏が顔を会わせた折の写真もある。
その穏やかな日常。著者は、彼らの「何でもない日常を写すことは、それがどうして『何でもない』のかを思考する契機となる。(中略)今の穏和な生活を送る姿からは見落としてしまいがちな、彼らの中に堆積する様々な感情を推し量る」と語る。
その写真の中の日常が穏やかであればあるほど、2人が体験した不条理や理不尽の闇が濃く見えてくる。
(赤々舎 4500円+税)