「追憶の東京」アンナ・シャーマン著 吉井智津訳
河竹黙阿弥が書いた「慶安太平記」は、江戸時代初期、幕府転覆を企てた丸橋忠弥の物語だが、その忠弥の生きていた時代には目白から江戸城の屋根が見えたという。なぜ目白かというと、この町の金乗院に丸橋忠弥の墓があるからだ。
アンナ・シャーマンは、その忠弥の目で目白から江戸城の方角を見る。それまで建てられた建造物のなかで随一の高さを誇っていたころの江戸城が、私たちにも見えてきそうだ。
本書は、2000年代初めの10年あまりを東京で過ごした英国在住作家のエッセー集である。江戸時代には時を告げる鐘が幾つもあり、その地を探して歩く紀行エッセーでもあるが、私たちが忘れてしまった東京の町があちこちから立ち上がってくる。
最初、江戸には時を告げる鐘が3つしかなかったが、人口が増え、江戸の町が大きくなるにつれて、鐘の数は増えていく。著者はこう書いている。
「これらの鐘が時を知らせたおかげで、城下の町は、いつ起きて、いつ眠り、いつ仕事をし、いつ食事するかを知ることができた」
「それぞれ鐘の音の届く範囲が示された地図を見たことがある。静かな池に雨粒が落ちたように、円がつぎつぎ重なりあう。水面を打った瞬間に凍りついた雨粒」
素晴らしいイメージだ。
本は急いで読む必要はない。ゆっくりと読む楽しさを教えてくれる書でもある。
(早川書房 2200円+税)