昭和44年の朝日新聞に掲載された母親からの「悩み相談」
実は、清志郎の両親は育ての親で、実の母は彼が3歳の時に胃がんで亡くなっている。姉の久子さん夫婦が引き取って彼を育てたのだ。
「夏休みに遊びにきても宿題をいっぱい持ってきたと、親戚の方から聞きました。当時の写真を見る限り、分厚いメガネをかけてきゃしゃで小柄。漫画でいうと真面目な秀才タイプかな。実際、成績も良かったそうですよ。でも、音楽は1だったって。歌は上手でも声が高過ぎて合わないとかで(笑い)。絵の才能も素晴らしいのですが、結局、美術部顧問で担任の小林先生の説得によって、4年間、大学へ行かせたつもりで好きなことをやらせようとなったそうです」
清志郎の回想録によると、母親は学校の父兄参観日には真っ先に顔を出すタイプ。清志郎が先生の質問に答えられないでいると、すっ飛んできて「清志(清志郎の本名)、なんでこんなことがわからないの」と机を叩くのだという。清志郎は「オレは真っ赤になって余計にしゃべれなくなった」と語っている。
その育ての母も86年に72歳で亡くなった。
「あれほどプロになることに反対されたお母さまですが、清志郎がデビューした時、『いただいたファンレターには必ずお返事を書きなさい』と伝えたそうです。言い付けを守ったのか、清志郎さんはファンの手紙には必ず目を通していましたね」
清志郎は中学1、2年の頃には、自分が養子だと気付いていたという。
「深刻な感じではなく、『ジョン・レノンも伯母に育てられたし、オレもいつか数奇な境遇を使ってみようと思ってた』なんて話していましたね」
(つづく)