高校を中退し石原裕次郎の内弟子になろうと成城の自宅へ
「母に渡された3万円ではアパートまでは借りられませんから、住み込みですよ。最初は八百屋、次が寿司屋、劇団に正式に所属してからは稽古が週2回あったので、両立が難しく青果店の配送など7カ所くらい働き口が変わりました。携帯電話もない時代でしたが、ホームシックにならなかった。石原裕次郎さんみたいになるっていう夢がありましたから。もちろん、あの時、母が中退を反対していたら高校を卒業していただろうし、そうすれば流れの中で地元企業に就職していたかもしれません」
石原裕次郎への憧れのきっかけをつくったのは、実は16歳の時に亡くなった大工の父だった。
「当時、豊橋駅前に日活の映画館(広小路日活会館=2001年閉館)があって、そこの社長さんの家の床の間なんかをつくったお礼として映画の招待券が送られてきていた。10歳の時、石原プロの第1作映画となった『太平洋ひとりぼっち』を見て俳優になろうと、はっきり決めました」
映画は堀江謙一氏の同名のベストセラー手記を裕次郎主演、市川崑監督で映画化したものだ。「マーメイド号」に乗って太平洋を単独横断する海洋冒険のストーリーで、無鉄砲に東京に単身上京した松平の姿と重なる。