“アイドル”を創出した阿久悠 日本歌謡界を変えた「スター誕生!」を企画
(3)“アイドル”を創出・阿久悠
野坂昭如、大橋巨泉、阿久悠、秋元康、鈴木おさむ、三谷幸喜、宮藤官九郎に至るまで、時代をつくった人たちは、その多くが「放送作家」出身だ。“テレビはオワコン”ともいわれる今、裏方だった彼らの活躍を知ることで見えてくる、もうひとつのメディア・エンタメ史。「放送作家ほぼ全史」(星海社新書)を上梓した社会学者・太田省一が、その謎をひもとく。
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阿久悠といえば、数々の名曲を残した昭和の大作詞家。その阿久も、放送作家だった時代がある。
1937年、兵庫県淡路島に生まれた阿久は、明治大学入学とともに上京。卒業後に広告代理店の宣弘社に就職した。広告代理店というと花形業種のイメージがあるが、当時はまだそうではなかった。ただ映画好きだった阿久悠は、宣弘社が人気テレビ映画「月光仮面」の制作をしていると聞いて、希望したのだった。
入社後はCM制作に携わっていたが、ある日同僚からアルバイトでラジオ番組の構成の仕事をやらないかと持ちかけられる。そのとき、本名のままでは会社にバレるとまずいというので付けたペンネームが「阿久悠」だった。
そうして放送作家となった阿久悠に、作詞のチャンスが訪れる。構成を担当していた音楽番組の出演者だったザ・スパイダースが歌う曲の詞を書くことになったのである。そこから作詞家の道に。そして1971年には、尾崎紀世彦「また逢う日まで」が大ヒットし、日本レコード大賞を受賞する。阿久も一躍、人気作詞家の仲間入りをした。
「アイドル」という存在が生まれた
その同年、阿久が企画したオーディション番組が、日本の歌謡界の歴史を変えることになる。日本テレビ系「スター誕生!」である。森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花の中3トリオ」、岩崎宏美、ピンク・レディーらを輩出したことで有名だが、阿久は審査員を務めるとともに、オーディション合格者のほとんどの詞を手掛けた。
なかでも、ピンク・レディーは次々とミリオンヒットを飛ばし、社会現象的ブームを巻き起こした。子どもたちが振り付けをこぞって真似たように、そこにはただ歌うだけの従来の歌手にはない、新しい魅力があった。それは、作曲の都倉俊一や振り付けの土居甫と組んで、阿久悠が持ち前の放送作家ならではの企画力を生かして仕掛けたものだったと言える。
「スター誕生!」でのオーディションの審査に当たり、阿久は、「下手を選びましょう。それと若さを」と他の審査員に提案したという。
歌などは未熟であっても、人を引きつけるフレッシュな親近感が、テレビ時代の歌手にはなによりも必要と考えたのである。こうして、私たちがよく知る「アイドル」という存在が生まれた。いま時代は移り、AKB48や乃木坂46などが人気になっても、この基本は変わっていない。
その意味で、阿久悠はまさにアイドルの生みの親と言えるだろう。それは、放送作家としてテレビ番組に携わり、テレビの特性を熟知していたからこそ成し得たことであった。 =つづく