東京・国立の景観美と街の財産 地元在住43年の写真家がたどる…新築マンション解体騒動で話題
積水ハウスが「富士山の眺望を回復する」とした意味
1926年に国立駅が開業すると宅地の分譲がスタートし、東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)が校舎の竣工に合わせて移転。翌27年には一橋大学も誘致された。
箱根土地は、街の骨格として3本の通りを配置する。駅前の円形公園を起点に谷保駅(29年開業)に向けて南北に延びる「大学通り」、駅の南東に朝日を望む「旭通り」、そして駅の南西には通りの奥に富士山を望む「富士見通り」だ。
宅地分譲では「郊外の理想郷」が打ち出されて景観美がPRされていく。景観美が街や住民の「財産」として評価されるのは、こうした街の成り立ちも影響しているのだろう。問題のマンションは国立駅から富士見通りに入って700メートルほど進んだところにある10階建て。積水ハウスが「富士山の眺望を回復する」とした意味を解釈すれば、「景観は財産だ」とする街や住民の意見を尊重してのことかもしれない。
堤は分譲後も、大学通り両脇の緑地帯と駅前の公園を行政に譲渡せず、同社に保有させた。「行政に預けたらどうなるか分からないと堤が心配した」と地元住民は話す。西武沿線の大泉学園や小平の学園都市開発を手掛けた堤の集大成が国立であり、「遺作」となった。
戦後の住宅復興で人口が増え、51年に谷保村は国立町に。隣町にあった米軍立川基地の影響で、兵士を相手にする風俗施設や飲食店などもできたことから、住民や学生が文教地区指定運動を起こし、52年に東京で初めて文教地区の指定を受ける。文教地区になったことで、その後、風俗店や商業施設などの建設は制限されるが、米兵の影響は基地が解散する70年代まで続いた。