関根潤三さん大往生 巨人で見せなかった“もうひとつの顔”
プロ野球の大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が9日、老衰のため死去。93歳だった。
日大三中(現日大三高)から法大を経て1950年に近鉄に投手として入団。54年には自己最多の16勝をマークした。投手として通算65勝(94敗)を挙げ、57年に打者に転向すると通算1137安打。史上初めて投手と野手で球宴出場を果たすなど、「元祖二刀流」として活躍した。
65年の引退後は解説者として人気を博す一方、70年に広島、75年には就任1年目の長嶋茂雄監督に請われて巨人のヘッドコーチに就任。当時を知る巨人OBの高橋善正氏がこう振り返る。
「関根さんの現役時代、バットを引きずりながら打席に向かう姿が印象的だった。コーチで巨人に来られたので、その理由を聞いたら、『打席に立つ前に腕が疲れないように』と一言。合理的というかなんというか、天才肌の人でしたね。そういうタイプの方だから、巨人のコーチ時代は決して選手に命令口調で接しない。優しく語りかけるという感じで、当時の指導者としては異色でした。