女子バレー悲運のセンター・池知晶代氏 幻は一生悔い残る
才能もあったのだろう。長身を武器にめきめきと頭角を現し、高校では全国大会を経験。大学や企業からも多くの声が掛かったという。短大や大学へ進学をするチームメートが多い中、竹島氏は富士フイルムでバレーを続ける道を選んだ。
「環境も変わる中で少しずつ挑戦したい気持ちが湧いてきました。いざ、チームに入ってみると練習は本当に厳しかったです。根性と忍耐の時代だったので、早朝から夜中まで毎日ずっと練習漬け。ある程度は覚悟していたけれど本当に驚きました」
■息つく暇もない熾烈な競争
過酷な練習にも耐え、3年目には全日本入りを果たした。同じポジションにライバルが控えているため、全く気が抜けない。合宿では息をつく暇もないほどの熾烈な競争の中で掴み取った五輪への切符だった。
竹島氏はボイコットの翌年、モチベーションが低下し、痛めていた膝も悪化したため、23歳で引退した。
「辞めてからは実家の高知県へ戻り、知人の紹介で母校の高校でバレー部のコーチを1年ほど務め、結婚しました。夫が転勤族で、東京、名古屋、福岡と転々としていましたが、50歳手前でやっと高知へ戻ってきました」