体操・梶谷信之氏「1回は出たい」と這い上がりメダル獲得
梶谷 信之さん(体操)
「ボイコットが決まった瞬間(1980年5月24日)、確か順天堂大学で合宿中だったと思いますが、受け入れられないというか、奈落の底へ突き落とされた気持ちでした。噂になっていたので、『どうなるんだろう』と集中できない日々が続いていて、驚きというより不安な気持ちが襲ってきました。4年後は代表に選ばれるのかと。その瞬間に合宿は解散。みんなで怒って帰ったのを覚えています」
当時、梶谷氏は25歳。「あの頃がピークでした」とこう続ける。
「1カ月くらいは何もやる気が起きませんでした。次の(ロサンゼルス)オリンピックまで4年。非常に遠く感じましたね。その年にモスクワ五輪をボイコットした国々が米国で五輪の代替試合をしたんです。この大会で日本は団体2位でしたが、個人総合は私が優勝しました。モスクワ(五輪)に出ていたら……というのはありましたね」
無念を噛みしめながらも、その後は世界選手権に出場するなど、4年後に向けて進みだしていた。が、ロサンゼルス五輪前年の83年に気持ちがプッツンしてしまう。