マック鈴木さん 手探りのマイナーからデビューまでを語る
団野村のエージェントとしての初仕事
1993年に団さんの指示で1Aのサンバーナディーノ・スピリッツのトライアウトを受けて、選手として入ることに。
その年のオフ、当時のメジャー全26球団からオファーをいただいて、団さんが「シアトルはそんなに強くないからすぐ投げられるんじゃないか。(地元の)神戸と姉妹都市だし、アジア人のコミュニティーも大きい」と言ってくれて、マリナーズと契約しようと。
すると、球団側が「マック鈴木のエージェントを連れてこい」と。その頃の団さんは通訳でしたから、急きょエージェントのライセンスを取ったんですよ。弁護士になりたくて法律の勉強もしていたそうです。
僕は米国の有名エージェントから熱心に声をかけられていたけど、若いし、契約のことはわからない。オヤジからは「義理だけは大切にしろ」と言われていたので、お世話になってきた日本人の団さんにお願いしようと決めました。団さんとしてもエージェントとしての初仕事。すべて手探りでしたよ。
だから、退学して米国に行ってなければ、団さんはそもそもエージェント業をやってなかったし、そしたら、野茂英雄さんも日本球界とあれだけ闘ってドジャースに行く形になっていなかったと思います。
94年からマイナーで活動し、2年後の96年の7月7日に先発でメジャーデビュー。デビューの瞬間は緊張しましたね。2Aから呼ばれたし、4点台の防御率だったから、自分でも「今のレベルじゃ無理やろな」と思いました。
それまでメジャーのマウンドは雲の上の世界だったけど、先頭バッターから三振を取り、その記念球をチームメートのランディ・ジョンソンから手渡されると「ここで投げたい」という思いが強くなりました。バス遠征が十何時間もかかる2Aの暗い球場じゃなくてね。ランナーを残してマウンドを降りて後続が打たれたので、苦いデビューにはなってしまったんですが。
初勝利はその2年後。今度は3Aでしっかり成績を残せたことが評価されて、メジャーに上がれたので、すごく落ち着いて投げられました。
ボストン・レッドソックス戦で七回途中まで投げ、自分で満足がいくピッチングができて勝利投手に。この時の記念のボールは母親にプレゼントしました。ただデビューの記念ボールは今、誰が持ってるかわからない(笑い)。
その後、数チームのメジャーを経験し、日本のプロ野球でプレーしました。団さんがいなかったら、メジャーデビューの瞬間はなかったと思います。
今は社会人の軟式や専門学校の硬式の監督をやってます。講演では、僕が米国に行かなければ団さんもエージェントになってませんし、そうなると、野茂さんもメジャーに行ってないかもという話をオチにしてます(笑い)。
(聞き手=松野大介)
▽鈴木誠 1975年5月、兵庫県生まれ。10代で渡米し、マイナーを経て96年にメジャーリーグデビュー。マリナーズをはじめ多球団でプレー後、2003年に日本球界デビュー。メキシコや台湾などでもプレー。11年には関西独立リーグの神戸サンズで選手兼監督を務めた。