日本代表には環境の違いに適応&対応する力が必要だった
1988年のソウル五輪では投手担当コーチ、92年のバルセロナ五輪は監督を務めた。野球はバルセロナから正式種目に採用された。それにつれて国際大会が増えていく中で、私は89年の監督就任から4年間、目先の勝敗だけにこだわらず、若い人たちにどんどんチャンスを与えたいと考えた。バルセロナでは金メダルを獲得することはできなかったが、社会人、大学のトップクラスの選手たちとともに、かけがえのない経験を積むことができたと思っている。
日本は公開競技として行われた84年ロサンゼルス五輪で金メダル、88年ソウルでは銀メダルを獲得した。正式種目となったバルセロナで勝つためには、まずは選手も我々指導者も、今の実力では世界で勝つことが難しいことを知り、成長していく必要があった。
選手は個々の技術はあっても、日本との環境の違いに戸惑うことが多かった。アメリカやキューバ、ニカラグア、中国など、多くの国で野球に携わったが、海外では、日本で当たり前のことがそうではないことが多い。
言葉が違えば気候も食事も違う。試合日に移動のバスが定刻通りに来ないことは珍しくなく、それによって試合前の練習が短くなることもある。グラウンドにたくさんの石ころが転がっていることもあった。ストライクゾーンも変わる。違いを言い出せばきりがないが、当時の日本の選手たちは、その違いに気をとられがちだった。適応力、対応力に最も欠けていたと思う。
だから私は選手に常々、「ここは日本ではない。何が起きても不思議ではない」と伝えた。環境の違いを言い訳にせず、受容し、最高のパフォーマンスを発揮することが求められるのだ、と。野球という競技は、パワーや技術、体力はもちろん、あらゆる環境に適応、対応する力も含めた総合力が必要だ。