浅野拓磨の所属先空欄で思い出した37年前の“所属なし”問題
浅野は、正当な権利を行使したに過ぎない。
反町JFA技術委員長は、今回の浅野の招集について「コメントするのは難しいところでもあるが、彼はいま日本におり、代表に備えてしっかりと準備をしている。報道にあるようなことも把握しているが、クラブマターの話。代表に欠かせない選手ということで選ばせてもらっている。代表に呼ばれてからは、しっかりやっていくことを約束してもらうし、彼のパーソナリティーを考えれば当たり前のこととしてやってくれる。活躍してもらいたい選手の一人だと思っている」と期待感を表しつつ、具体的な説明は避けた。
■長沼氏から「どのチームでもいいから選手登録をしてい」と
そこで思い出されるのが、37年前の出来事だ。
1984年4月、森孝慈監督(故人)率いる日本代表は、シンガポールで集中開催される「ロサンゼルス五輪」のアジア最終予選に臨んだ。
ゴールマウスを守るのは、29歳のベテランGK田口光久氏(2019年11月に逝去。享年64歳)だった。