山本アテネ五輪監督が率いたのは「谷間の世代」だった
決勝戦の相手は4回の優勝を誇るイラン(最多優勝は韓国の5回)。
後に国際Aマッチ通算109ゴールという大記録を樹立するイランの英雄FWダエイがOA枠で加わった強力なチームだった。日本は粘りを見せてイランに食い下がったが、カウンターから失点して1-2で敗れた。
それでも釜山で手応えをつかんだ山本ジャパンは、5月の五輪アジア2次予選で対戦したミャンマーに連勝し、8月末から始まる最終予選に備えた。
ここで山本ジャパンを予期せぬ出来事が襲った。8月30日から始まる予定だったアジア最終予選が、アジア各国で新型肺炎(SARS)が流行し、さらにアメリカなどのイラク侵攻も重なり、2004年3月まで延期されてしまったのである。
■五輪最終予選をめぐる交渉
その延期された最終予選だが、開催方法を巡って紆余曲折があった。
日本はUAE、バーレーン、レバノンと同じグループになった。
予選は、本来ならホーム・アンド・アウェーで行われる。しかし、日本には「3月はJリーグが開幕するのでチーム編成に苦慮する」という事情があり、さらにホーム・アンド・アウェーで開催されると「日本は3回も中東を往復しなければならない」ことになる(中東各国は日本に1回往復するだけで済む)。