山本アテネ五輪監督が率いたのは「谷間の世代」だった
そこで山本監督は、中1日のタイトな日程になるが、移動の負担が軽減される「ダブル・セントラル方式」というプランを思いついた。
まずは「UAEに4カ国が集まって各3試合を戦う」。その後、日本で各3試合を消化する形式である。これを実現したのが、日本サッカー協会(JFA)の平田竹男GS(ゼネラルセクレタリー=専務理事)だった。
平田は横浜国大を卒業後、通産省(現経済産業省)に入省して在ブラジル一等書記官、資源エネルギー庁石油部開発課長などを歴任。中東相手の交渉のエキスパートでもあった。
1980年代後期からJリーグの発足に関わったことから川淵三郎(初代Jリーグチェアマン。第10回JFA会長)と知己を得て、2002年のW杯招致にも携わった。
ちなみに現役官僚がJAFの専務理事に転身したのは、後にも先にも平田しかいない。
FIFA総会、アテネ五輪予選のグループ分け抽選会はカタール・ドーハで開催されたが、試合方式と日程は当事国同士の話し合いに委ねられた。