日本ハム1位・達孝太 プロ野球選手を志した父の助言の意図
■「ホントに幼稚園児?」
寝る子は育つ。幼稚園児時代には小学3年生の平均身長と同等の130センチ超。あまりに規格外だったため、焼き肉の食べ放題や遊園地に行くと「ホントに幼稚園児?」とスタッフにいぶかられたこともしばしばだったという。
達が高石スワローズで野球を始めたのは小学4年の終わり頃。投手を始めたのは中学生になってからだ。泉州阪堺ボーイズで現在もコーチを務める杉原照夫さんは「背が高いので投手をやらせてみようと。身体能力が高くて球は速かったのですが、始めたばかりでコントロールに課題があった。エースというわけではありませんでした」と振り返る。
小・中と達に合わせてチームのコーチをしていた等さんは「まだ勝負の時じゃない。高校で一度ぐらいは野球をやりたくないと思うかもしれないから、今は楽しんでやろう。ムリしてケガをして将来に響いたら元も子もない」と、本人の尻を叩くことをあえてしなかった。
この方針は、自身の野球経験に基づいたものだ。等さんは中学時代に全国大会を経験。内野手として鳴らした大産大付高時代は近畿大会に進出し、甲子園まであと一歩のところまで駒を進めた。奈良産業大へ進むと1年春からベンチ入り。プロ野球選手になることを目標にしていたが、20歳の頃に試合中のクロスプレーで靱帯を断裂、夢を断念せざるを得なかった経緯がある。卒業後もメーカー兼商社の㈱ドウシシャで業務の傍ら軟式野球を続け、のちに6年間監督を務めた(達が野球を始めた年に退任)。