自分が育った横浜で…ヤンキースのような紙吹雪舞う中の優勝パレードは生涯忘れない
そして、自分の育った場所を本拠地にするチームで、チャンスがありながら近鉄でも巨人でも達成できなかった日本一を経験した。しかも年間50試合に登板し、日本一を決めた日本シリーズ第6戦ではピンチを抑えて勝利投手にもなった。38年ぶりの日本一に貢献できたのは、自分の野球人生の中でも大きな幸せだった。
優勝した年のシーズンオフ、納会ゴルフでの話だ。ユニホーム組と背広組に分かれて表彰され、権藤監督と大堀球団社長が互いのスコアを交換することになった。つまり権藤監督のスコアが大堀社長のスコアになり、大堀社長のスコアが権藤監督のものになる。あくまでも相性の良い2人の間だけの決め事だ。
■初のチャンピオンリング
権藤さんはゴルフがうまいから、大堀社長は優勝か準優勝。で、大堀社長はスピーチでも権藤さんになり切って、「えー、来年もバントはしないし、ミーティングもやりません」みたいなことを言ったから、その場は爆笑の渦に。ウイットに富んでいるというか、アメリカっぽいチームの雰囲気も好きだった。当時、チャンピオンリングを作る球団は珍しかった。少なくとも近鉄と巨人ではもらったことがなかったけれど、横浜は作った。初めてチャンピオンリングを手にしたのもいい思い出だ。 (つづく)