頑なに「高卒で米挑戦」…まともに会話すらなかった大谷が翻意、日本ハムに入団決めた舞台裏
本塁打王と2度のMVPという実績をひっさげ、プロスポーツ史上最高額でドジャースに移籍した大谷翔平(29)。メジャーでベーブ・ルース以来となる二刀流選手の礎を築いたのは日本ハムだろう。
大谷を獲得した当時のGMである山田正雄スカウト顧問に結婚、二刀流、その素顔などを聞いた。今回はその【第2回/全4回】。
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──(山田スカウト顧問の「大谷は自分で判断していく性格」という言葉を受けて)日本ハム入りも自分の意思と。
「メジャー以外行かないと言う大谷を、日本ハムがドラフトで指名した経緯がありました。お父さんにも何とか説得してもらおうと思ったんですけど、最初から『山田さん、僕にいろいろなことを言ってもダメですよ。僕からはアイツに対して何も言えない』と。
高校3年の初めに、将来、プロ野球に行くのか、大学に行くのか、アメリカに行くのかと話題になったときも、『将来のことはオレが自分で決めるから、だからオレに決めさせてくれ』とお父さんは言われたそうです。それで『おまえの人生だからそれはそれでいいんじゃないの』と返したと。『なので球団がこう言ってるからこうだと僕は言えないし、向こうも聞く耳はもたない。間には入れない』と言っていました」
──そのころから自分のことは自分自身で判断すると。
「お父さんの話を聞く限り、そういう感じなんでしょうね。小さいころから自分の進むべき道、やるべきことはある程度、自分で考えてやってきたんだと思いますよ。お父さんは将来のことはオレに任せてくれと言われたといいますけど、もともとそういうタイプで、それはお父さんも分かってたんじゃないでしょうかね」
──初めて大谷と会って話した印象は。
「本当にやりとりがなくてね(苦笑)。それで初めて会いに行ったときも、実はもう、アメリカに行くことを決めているし、会って話をしたくないという雰囲気があったもんですから。それ以降、こっちも、あまりそういう話をしたことはないんです。大渕(隆=当時のスカウトディレクターで現GM補佐兼スカウト部長)が『大谷翔平君 夢への道しるべ』という資料を作りましたけど、あのときも直接、本人には渡していません。
両親に見せたりして、両親の方から伝えてもらおうと。僕も含めて栗山(英樹=当時の監督、現チーフ・ベースボール・オフィサー)さんも大渕なんかも、大谷本人と細かい話をしたことはないんです。交渉の席でも、向こうからは何も聞いてきませんし。初めのうちは挨拶をして、こういうことになっちゃったからと。君が考えていたアメリカ行きをこっちが覆したというか、強行したわけで、ただ謝るというね。そんな状態でした」