「築地魚河岸ひとの町」本橋成一著
まだ移転話も持ち上がっていなかった1980年代に撮影された、昭和の時代の築地市場の写真集である。
築地といえばマグロ。朝5時半からのセリを前に、ずらりと並べられたマグロを一尾ずつ確認する仲卸業者や、活気あるセリの臨場感など、場内市場のマグロのセリ場の風景から本書は始まる。
場内市場には、扱う商品によって場所が分かれたセリ場が約20カ所あり、午前8時ごろになると、競り落とされた魚を積んだ荷車やターレット(運搬車)であちらこちらに大渋滞が起きる。
そうした場内のさまざまな風景から、仲卸業者の店頭での客とのやりとりや、店裏に引かれた塩水を使って魚の下処理をする女性、魚河岸の日本橋時代を知る仲卸業者の古老、そして仲卸業者で買われた商品の配送を担う「運び屋さん」など、市場で働くさまざまな人にもレンズが向けられる。
午前11時を過ぎると、朝の喧騒がウソのように市場は静けさを取り戻す。仕事が一段落して食事を終えた人たちは、憩いのひと時を過ごす。中には、魚を冷やす氷をゴルフボールに見立て、スイングの練習をする人などもいる。
また、1985年に行われた仲卸業者の店舗移転の一部始終も撮影。場内では場所によって売り上げが大きく変わってしまうので、公正を保つために4年ごとに抽選で売り場の取り換えが行われているのだ。
90年に撮影された場内にある魚河岸水神社の大祭「水神祭」は、開催が不定期で昭和30年以降では、この時が3回目という貴重な映像。
そんな中、「築地玉寿司」の3代目が、母親の手を引いて市場を歩く一枚の写真がある。敗戦の年に夫に先立たれたが、女手ひとつで店をもり立て、無事に息子に店を引き継いだという母親の楽しみは、息子の仕入れに週2回、同行して、知り尽くした築地の散歩を楽しむことだとか。一枚一枚の写真から、市場を行き交う人たちのそんな物語や息遣いが立ち上ってくる。
カメラはさらに一般人が入れない場内を出て、民間の商店が軒を並べる場外市場の点景を切り取る。調理道具や漬物など、魚以外のさまざまな商品を扱う人々のポートレートや、買い物客で賑わう風景から、人々の営みの積み重ねによってつくり上げられた築地市場というひとつの「文化」の姿が輪郭を現す。
移転後、豊洲市場がこのような味わい深い文化をつくり上げるまでには、どれほどの時間が必要なのだろうか。(朝日新聞出版 3200円+税)